新説・日本書紀⑱ 福永晋三と往く
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2018年(平成30年)9月15日 土曜日
356年9月、神功は穴門豊浦宮に入った。豊浦宮は下関市幡生の生野神社と思われる。祭神が仲哀・神功・応神であり、古代幡生湾が深い入江となっていて、軍港にふさわしい。神功が多くの軍船を出したとの伝承も残る。さらに、境内に1500年前と推定される前方後円墳が残されている。 東鯷国の仲哀は、豊浦宮を出て橿日宮で「新羅を討て」との神託を得るが、これを信じないで熊襲を攻撃したため、橿日宮で没したとある。 ところが、神功紀では、軍に従った住吉三神が「我が荒魂をば、穴門の山田邑に祭れ」と皇后に教えた。そこで、穴門直の祖践立を神主とし、祠を穴門の山田邑に建てたとある。現在の下関市の住吉神社とされる。どうやら、橿日宮の記事は、実は豊浦宮の事件のようである。 9月5日、仲哀は群臣に熊襲討伐の軍議をさせる。深夜、ある神が皇后にかかり教えた。「熊襲が服従しないのを心配するな。津の向こうに宝の国、新羅がある。私を祭ったら、戦をしないで新羅も熊襲も自然と服従するだろう。その代わりに天皇の船と穴門直践立の献上した水田とをささげよ」と。天皇は疑い、高い丘に登り、大海を望むが、国も見えない。神にこう言う。「周囲を見ても海ばかりで国はない。どの神が私をあざむくのか」と。神が答えた。「私を信じないならお前は新羅を得られないだろう。ただし、皇后のお腹の子が得るであろう」と。
古事記には、この神との問答の後、仲哀は崩御したとある。書紀に戻ると、皇后は天皇の喪を秘匿し、天下に知らせず、豊浦宮で殯(仮の葬儀)し、无火殯斂をしたとある。この殯斂地が下関市長府の忌宮神社から500㍍南の日頼寺の境内にある。東鯷国の仲哀は、豊浦宮に崩じた。 翌10月、皇后は同所に斎宮を造らせ、自らが神主となり、群臣を従えて、先にたたった神と問答する。神の言に従い、神を祭った。事実上の即位であろう。中国の「宋史」日本伝(東大寺の「王年代紀」)には「神功天皇」と書かれている。 仲哀の不可解な死の後か、筑豊の県主が次々に神功天皇に帰順する。
357年1月、筑紫の伊覩県主の祖五十迹手が、五百枝の賢木を抜き取って船の舳艫に立てて、上枝には八尺瓊を掛け、中枝には白銅鏡を掛け、下枝には十握剣を掛け、穴門の引島(彦島)に天皇を迎えて献上した。「臣がこれらを献上する訳は、天皇に天下を平定していただきたいからです」と申し上げた。 続いて、岡県主の祖熊鰐が、「周芳の沙麼の浦」に神功を迎え帰順、魚塩(御料の魚や塩をとる区域)の地を献上した。 熊鰐一族は、神代の昔から遠賀の東西(北九州市から岡垣町)の海と海岸部を領有していた一族であろう。熊鰐の御子孫が今も岡垣町にいらっしゃる。周芳の沙麼の浦は今日まで山口県防府市佐波に当てられてきたが、北九州市八幡東区「諏訪」に鎮座する枝光八幡宮周辺と考えられる。神功の伝承も豊富だ。こうして、古遠賀湾沿岸の県主らの帰順によって、神功はいよいよ熊襲征伐を始める。 次回は29日に掲載予定です
生野神社にある古代幡生湾想像図
「宋史」の日本伝中の「神功天皇」